【Walk】 "Tami-Sanpo" "Tokyo・Kokubunji" Vol.24 Walk around the historic cityscape of Kokubunji Temple! Part 5 / たみ散歩"「東京・国分寺」Vol.24 ⑤

in #travel5 years ago (edited)

1. Introduction

Continue, I would like to write an article on a walk about Kokubunji in Tokyo. (The last article here)

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2. Walking

In this article I will explain the building, but since I did not have time to translate, I will introduce the video of the promenade called "Otakanomichi" to Steemians!

Steemians also enjoy walking with me!

written by tamito0201

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(※The following is a submitted article in Japanese.
以下は、日本語での投稿記事です。)

1. Introduction

引き続き、薬師如来を安置する本堂をはじめとした堂塔伽藍がそろい、八日堂のお薬師さんの名で近在の信仰を集めている国分寺のぶらり散歩をお届けします(前回の記事はこちら)。

2. Walking

「旧本多家住宅長屋門」。

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長門に入ってみます。

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長屋門とは近世(江戸時代)に上級武家や農村の庄屋屋敷に特徴的に見られる門で、門に小部屋が附設されたものを言います。簡単に言えば門と住居が一体化した建築のことです。

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本多家住宅長屋門は、代々国分寺村の名主であった本多家の屋敷の入口に、表門と先代当主の隠居所を兼ねて、江戸時代末期に建築されました。同家には、弘化5年(1848)3月の「表御門御長屋仕様御注文」が残り、建物を建てようとした当時の細かい仕様が窺えます。

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幕末から明治時代には、分家の本多雖軒が村医を開業して、教育や書画など多方面に活動する拠点として利用し、さらに大正時代以降には、建物を利用して養蚕を行っていたことも判明しました。

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本多雖軒について調べてみました。

本多雖軒は天保6年(1835)に国分寺村名主本多良助の四男として生まれます。雖軒は、16歳の時に下谷保村(現国立市)の医者本田覚庵のもとで医学・詩文・書画等を学び、その7年後には長崎へ遊学の旅に出るなど、充実した青年時代を過ごしました。

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覚庵のもとを離れた文久元年(1861)に府中宿で医者を開業し、小川新田(現小平市)名主の娘ちかと結婚すると、慶応元年(1865)には国分寺村へ帰郷します。長屋門を拠点に村医者を営んだ雖軒のもとには、小平・府中・三鷹市域の村々をはじめ、多摩川を越えて八王子や町田市域周辺の患者も通院していたようです。

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書家としても知られ、依頼に応じて多くの幟・扁額などに詩句や語句を揮毫した他、自ら書画会を主催するなど、生涯を通じて書画に対する情熱を抱き続けていました。また、府中宿時代には剣術・国学・和歌習得するなど、北多摩郡を代表する知識人としても活躍しました。さらに、村の教育にも熱心で、明治17年(1884)まで訓導(小学校教員)と教導職を歴任し、同43年(1910)村医者を辞した後は、晩年まで書画や文筆活動に勤しみ、大正5年(1916)に82歳で亡くなったとされます。

薬箪笥です。名前に薬がついている通り、薬剤を入れるための引き出しがたくさんついた箪笥です。箱の中には生薬が残っていたそうです。

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生薬とは、動植物などの天然に存在する薬効を持つ産物から有効成分を精製することなく用いる薬のことで、「きぐすり」とも呼ばれます。現在の医療行為では、診察して薬を処方する医師とそれを調剤する薬剤師は役割が異なりますが、かつての開業医は薬剤師も兼ねていました。

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近世の国分寺市域には10の村がありました。いずれも幕府の代官が支配しており、このうち、野川の源流を囲む国分寺村と恋ヶ窪村は江戸時代以前に成立した可能性があり、残る8ヶ村は享保年間(1716 ~ 1736)の新田開発により誕生した村とされます。

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新田村の多くは、多摩地方の各地から出作人が集って開拓しましたが、本多新田は国分寺村が中心となり作った新田でした。

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国分寺村は水田に比べて畑地がそのほとんどを占めており、村高は約460石、戸数は70戸、人口は350人前後と、武蔵国内の農村としては平均的な規模の村といえます。享保11年(1726)から年番制であった村の名主役を本多家が代々世襲し、国分寺村名主が本多新田名主も兼任しました。

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明治時代以降、幕藩体制に代わる新たな地方行政制度が始まると、国分寺市域の村々は韮山県と品川県に編入後、明治5年(1872)には神奈川県へ移管されます。さらに同 22 年(1889)に江戸時代の 10 村が合併して近代の国分寺村が誕生し、同 26年(1893)には東京府北多摩郡国分寺村となって、現在の市域の原型が出来たのです。

養蚕・製糸が展示されておりました。

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明治維新後、国際社会にデビューしたばかりの発展途上国・日本にとって、生糸は貴重な外貨獲得手段でした。というより、開国直後の日本にとって、利益が期待された輸出品は茶と絹しかなかったのです。今ではその養蚕・製糸産業は廃れてしまいましたが、かつてはこの国の広い範囲で生糸の生産が盛んに行われていました。

ここでもその蚕の育成や生糸製造に使われた道具類が陳列されていました。本多家は、遅くとも江戸時代末期には養蚕や製糸を手がけていたようです。

「養蚕火鉢」

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蚕があたたまるための道具です。蚕は寒さに弱いため、気温の低い夜は一晩中火鉢の中で炭を燃やして蚕室を暖める必要があります。

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旧本多家住宅長屋門があるお鷹の道がOtaculture.jpチャンネルで紹介されていました。

まめうさチャンネルのお鷹の道も素晴らしいです。

3. Summarize

江戸時代末期に建築された、国分寺市の重要有形文化財でもある「旧本多家住宅長屋門」。建物は江戸時代末期の建築で、木造2階建て寄棟造りです。

皆様もお鷹の道を散歩しながら国分寺の歴史を紐解いてみては如何でしょうか。

お次は「【散歩】たみ散歩「東京・国分寺」 Vol.24 国分尼寺の歴史ある街並みをぶらり散歩する!⑥」をお届けしますのでお楽しみに!

written by tamito0201(たみと)

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img credz: pixabay.com
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Better than Shin Chan's house

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