岡山・島根ドライブ 島根県立八雲立つ風土記の丘
・石屋古墳出土力士埴輪
筋肉質な足腰と大きな腹部は力士の証で、国内で最も写実的な力士埴輪でもある。
台の上に2本足で立ち、腹部から下が復元されている。右の腰には「まわし」の一部が残っており、足首には棘(とげ)状の武器がついている。
上半身も腕や胸の破片が確認されているが、全体を復元するには至っていない。
「日本書紀」には、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり、互いに蹴り合い、蹴速の腰をふみ折って勝ったとの説話がある。当時の相撲は蹴り技があったことがわかる(蹴り技は奈良時代以降禁じ手となる)。
また、野見宿禰は「日本書紀」では埴輪の創始者としても登場している。
・石屋古墳の馬埴輪
2頭の存在が確認されており、大きさは出土した当時の状況から全長が約100cmに、鞍の大きさから胴体幅が約32cmに推定復元でき、全体としてずんぐりとした体形となっている。
馬具の表現も極めて写実的で、馬の顔にかかる革帯には縫い目表現があり、手綱が宙に浮いた状態で表現されるなど、高い技術が伺える。
頭部には赤色顔料が一部残っており、製作当時は赤く塗られていたようである。
畿内の馬埴輪と比較すると口部分が丸く半円状に造られている事から、畿内北部の古墳や窯跡出土品との関係が指摘される。
一方で、出雲内部との関連性でいうと、近接する平所遺跡出土馬埴輪との関連性が高い。口の丸みや馬具の表現など全体的によく似ている。
しかし、横幅は平所遺跡の方が細く、全体的に馬具表現が簡略化され、重さも平所遺跡の方が軽量化されている等の変化が伺える。
・須恵器工人と横穴墓
東出雲町揖屋(いや)の出山池(でやまいけ)古墳群1号横穴墓からは、奇妙な文様を持つ須恵器質(すえきしつ)棺と、棺を支える不思議な須恵器が出土した。
棺の蓋(ふた)・身に突帯(とったい)を格子状に貼り付け、竹管文(ちくかんもん)を施す特徴的な意匠は、古墳時代後期に須恵器工場地帯となる松江市大井町の須恵器窯跡や古墳から出土する須恵器と共通する。
また、棺台として使用された須恵器も、特注品あるいは窯道具を転用した可能性が考えられ、被葬者が須恵器工人集団と密接な関係を持つ人物であったことがうかがわれる。
・奈良時代の国司の姿
この衣装は、奈良時代の国司の衣装を再現したものです。
モデルは史料上では最初に名前が確認出来る出雲国司 忌部子首(いんべのこびと)が従四位上に進んだ段階をモデルとしています。
頭には幞頭(ぼくとう)をかぶり、手には笏(しゃく)を持っています。服の色は四位の深緋(ふかあけ)に近い色を選びました。
大宝律令(たいほうりつりょう)では細かい規定がなされましたが、実際には十分に守られず、身分とは異なる服装の者も多かったことは、規制の命令(詔(みことのり))がたびたび出されたことからうかがえます。
・「額田部臣(ぬかたべのおみ)」の銘文
6世紀後半に作られた岡田山1号墳出土の大刀には、刀身を彫り込んでそこに銀を埋め込むことによって「額田部臣」の文字が刻まれていた。
偏や旁(つくり)が省略されているが額田部臣と読むことができる。
この額田部臣は、額田部と呼ばれた人々(部民)の集団をとりまとめ、臣という称号が与えられた額田部のリーダーを意味する。
古墳の主はヤマトの大王に奉仕する代償としてリーダーの地位を認められ、大刀にも自らの名と地位を示す額田部臣を刻んだのだろう。
部民とそのリーダーの実在を示す最古の資料である。
・岡田山二号墳
直径四四m、高さ五・四mの大型円墳である。墳丘は二段に築成されており、斜面には葺石が施されている。
古い文献には埴輪の存在が記載されているが、詳細については不明である。
出雲地域では、四〇m以上の円墳は七基しか確認されておらず、意宇平野を一望できる立地からも、きわめて重要な古墳といえる。
未発掘であるため、詳細は明らかではないが、出雲地域の大型円墳の様相から推測すると、古墳時代前期末から中期頃(四世紀末~五世紀)に築造された古墳とみられる。
・岡田山1号墳
岡田山1号墳は6世紀後半に造られた前方後方墳で、昭和40年(1965)に国の史跡に指定されています。
大正4年(1915)に発見され、昭和45年(1970)には発掘調査が行われました。調査の結果、墳丘は全長約24mで2段に造られ、墳丘斜面には葺石を貼り、後方部に円筒埴輪と子持壺が並べられていたことがわかりました。
後方部の中央に全長5.6mの横穴式石室があり、石室の構築に持ち送り式技法が採用されていることと、柱石を持つ石室であることから、九州地方の石室との関わりが指摘されています。
※葺石(ふきいし)とは、古墳の墳丘斜面などに、河原石や山石を埋め込んだり貼り付けたものです。
※持ち送り(もちおくり)式とは、石室の壁面を内側に傾かせて天井をふさぐ方法をいいます。
※柱石(ちゅうせき)とは、石室の入口から奥に、墓室を左右に仕切るために立てられている柱のことです。
貴重な副葬品
岡田山1号墳では多くの副葬品が発見されています。石室からは中国製の円行花文鏡、装飾付大刀4本、鉄鏃(矢の先)などの武器や刀子のほか、金銅製の馬具が出土しました。墳丘からは須恵器の子持壺、円筒埴輪などが発見されています。昭和58年(1983)には大刀の1本から「額田部臣」の銘文が発見され、全国的な話題となりました。
大正時代に発見された出土品は昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定されています。
※副葬品は島根県立八雲立つ風土記の丘、および東京国立博物館に収蔵・展示されています。
埋葬状況について
後方部の中央に全長5.6mの横穴式石室があり、内部に小型の組合式家形石棺と、仕切り石で囲まれた副葬施設が備えられています。
副葬された4本の大刀は、この施設に並べられた状態で見つかったと言われています。その他の副葬品は石室内や石棺の横に置かれていました。
銘文について
この大刀は刀身の約半分を失っていますが、残っている長さは52cmあります。
刀身は彫り込んでそこに銀を埋め込むことによって「各田部臣□□□□大利□」の文字が刻まれていました。
頭の四文字は「額田部臣」と読むことができ、この額田部臣は、額田部(部民)と呼ばれた人々の集団をとりまとめ、臣という称号が与えられた額田部のリーダーを意味しています。
この大刀の発見は部民とそのリーダーの実在を示す最古の資料となり、我が国古代の社会制度のひとつである「部民制・氏姓制」の成立時期を考えるうえで極めて貴重な発見となりました。