岡山・島根ドライブ 吉田郡山城

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郡山城跡は、吉田盆地の北、郡山に築かれた毛利氏の本拠城の跡である。東西1.1km、南北0.9kmにおよぶ郡山全域を城郭化した大規模な山城で、標高390m、比高約190mの山頂に本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる郭を構え、四方に延びる尾根に300以上の郭がある。

毛利氏は承久三年(1221)の承久の乱の後に吉田荘を得、十四世紀には吉田荘に入ったとされる。しかし、本拠としての城が史料で確認されるのは享徳二年(1453)以降で、この頃には郡山南東部の支尾根に城(本城)が築かれていたと推定される。その後、毛利元就が十六世紀中頃に城郭を郡山全域に拡大、さらに、その孫・輝元が改修している。輝元は広島城を築き、天正十九年(1591)に移ったが、その後も慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後の毛利氏の防長移封まで使用されていたと考えられる。

郡山城跡は、多数の郭が複雑に構成され、時代的変遷をたどるとともに、毛利氏の城のあり方を示し、またよく保存された山城として貴重である。
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・御里屋敷跡伝承地(吉田郡山城 毛利氏居館跡)
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・毛利元就公火葬場伝承地
毛利元就は、元亀二年(一五七一)年六月十四日、お里屋敷で七十五歳で逝去、波瀾の一生を閉じた。
遺骸は、翌十五日大通院に移し、正殿に安置し、法名を日頼洞春と称した。三原妙法寺の住職 嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師を招聘し、六月二十日の初七日の法会を営んだ後、この火葬場で茶毘に附した。火葬の際には10間(18m)四方の間に小石を敷きつめ、沈香を焚きその香りは遠くまで匂ったという。

この火葬場跡は、3間四方を石垣で囲み、中に栂(つが)の木を植えた。栂の木は高さ約10m、周囲約3mに達したが、昭和四十六年枯死した
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・大通院谷川砂防公園
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・青光井山尼子陣所跡
天文九年(一五四〇)出雲尼子(あまこ)氏が吉田に侵攻した郡山合戦の際、尼子詮久(あきひさ)(晴久(はるひさ))軍によって築かれた巨大な陣城跡。独立した山である青山と光井山を総称し、近世以降に「青光井山」と呼ばれた。毛利軍の本拠である郡山城に対峙するように築かれたこの二城は谷を挟んで並んでおり、一体的に築かれたことがわかる。

毛利元就自らの記録によると、九月二十三日に尼子軍が布陣し、翌年一月十三日に大内氏からの援軍である陶隆房(すえたかふさ)軍が三塚山(光井山)を攻め、毛利軍は宮崎長尾(宮崎城)を攻撃した。この日、三塚山を守った詮久の叔父尼子久幸(ひさゆき)が討死するなど激戦となったが、その夜尼子軍は急遽全軍退去し、合戦は終結した。

わずか四ヶ月間の使用と考えられるが、短期間で築かれたと思えないほど、長い尾根上に断続的に大小多数の郭(くるわ)を連ねた本格的な山城である。いずれも城域は長大で、直線距離で青山城は全長九〇〇m、光井山城は一一〇〇mにも及ぶ。遺構の状況は極めて良好で、特に青山城中心部の完成度は注文本陣(ちゅうもんほんじん)を思わせる。

築城時期と築城者が特定できる陣城跡であり、歴史的にも重要な合戦を伝える貴重な史跡である。
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・毛利隆元(もうりたかもと)墓所
隆元は、毛利元就の長男として大永三年(一五二三)多治比猿掛城(たじひさるかけじょう)内で生まれた。吉川元春(二男)小早川隆景(三男)の兄にあたる。

幼名を少輔太郎(しょうたろう)といい、天文六年(一五三七)人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。以後、天文十年(一五四一)十九歳で帰還するまで大内氏に優遇を受けた。

天文十五年(一五四六)二十四歳で家督を相続した。三年後には、内藤興盛(おきもり)の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文二十二年(一五五三)に長男幸鶴丸(輝元)の誕生をみた。

永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比に一時帰還した。就がいる出雲には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部(ささべ)(高田郡高宮町)で和智誠春(わちまさはる)の饗応(きょうおう)を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に四十一歳、永禄六年(一五六三)急逝した。菩提寺は常栄寺である。
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・常栄寺跡(じょうえいじあと)
常栄寺は、毛利隆元の菩提寺である。
永禄元年(一五六三)隆元の没後、元就は、隆元の尊師山口の国清寺の僧、竺雲恵心(じくうんえしん)を招き、開山とした。

寺は、翌永禄七年(一五六四)扶桑十刹(ふそうじっさつ)に列し、勅願道場とせられ、正親町(おおぎまち)天皇の「常栄広刹禅師」の勅額を受けた。

天正一九年(一五九一)の分限帳によると千四百八十石五斗余を領している。

寺跡は、二段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。

毛利氏の防長移封後、山口に移った。現在の常栄寺は、雪舟庭としても有名である。
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・郡山公園展望台
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・本城(ほんじょう)
標高二九二m、比高九〇m

郡山東南の支尾根上、吉田保育所の裏手にあり、南北両側ともに非常に急坂である。東側に流れる可愛川(えのがわ)に突き出しており、本城は物流の要である可愛川を抑えることを意識した立地であったといえる。

最高所(通称本丸)を中心に300mにわたり東方向に郭(くるわ)が伸びており、城の両端には堀切(ほりきり)が残る。更に東の尾根先端部には細長い平坦地が多数残り、ここも城域であった可能性がある。

築城時期は不明だが、史料から15世紀中頃には毛利氏の山城(初期の郡山城)として存在したと考えられる。16世紀中頃、ここに居住していた毛利元就は長男の隆元に家督を譲った。その後元就は、郡山の山頂(「かさこ」に移り、当主となった隆元がこの本城に住んだ。史料の上では、ここに「二重・中・居屋」という空間があったことがわかる(毛利家文書七五〇)。後に隆元は、元就の住む山頂との利便性を重視して尾崎丸(おさきまる)へ移ったと考えられている。
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・尾崎丸跡(おざきまるあと)
尾崎丸は、満願寺仁王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用した三条の堀切で隔てた独立的な曲輪群である。

中心の尾崎丸は、長さ42M、幅20Mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3Mの高さをもつ二段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2Mの差をもって、小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。

なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎殿と称されていることから、隆元の居所と考えられる。
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・満願寺跡(まんがんじあと)
満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。

毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると天平十二年(七四〇)に行基菩薩が当地にこられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。

大永三年(一五二三)元就の本家相続が決定し郡山に入城するにあたってこの満願寺法師栄秀の説により入城の日(八月十日の申酉の刻)が決められたことや、永禄十年(一五六七)には越前の幸若大夫が満願寺に滞在し幸若舞を舞ったこと、同十一年(一五六八)には、観世大夫宗節一座の能狂言が行われたこと、さらに、元亀三年(一五七二)には、法華経読誦千部会が行われたことなどが記録にある。

この寺は毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに、萩城内に移っていたが現在は防府市にある。
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・勢溜の壇(せだまりのだん)
勢溜の壇は、本丸から南西へ伸びる尾根の御蔵屋敷西端を堀切って独立させた郭群を指す。最高所の郭(現在地)を中心として南西に長大な郭が8段続くこの郭群は、城内でも山頂部(本丸周辺)の郭群に次ぐ標高に位置し、郭面も整っている。

最高所の郭と南西直下の郭の段差面には石垣が残る。また、南端を通る登山道沿いにも石垣が残ることから、この道が廃城前から通路として存在した可能性がある。こうした立地や整地の良さから、この郭群は城内で重要な役目を担っていたことを思わせる。

(郭の名称は近世の地誌によるもので、在城時の名称ではありません)
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・御蔵屋敷跡(おくらのやしきあと)
二の丸西側下の上下2段の郭である。上段は二の丸から7M、下段はさらに5M下になる。
上段は20M×20Mで南側は三の丸西段へ続き、北側は土塁で切りその先に本丸を囲む帯郭が続く。
下段は30M×30Mで南からの登城路の正面に当たり、四方に通路がのびる。上段の二の丸側の石垣は壊されているが、上下段のいずれも四面を石垣で囲んでおり、下段西側の通路側から見ると高さ10数Mの三重の石垣がそびえ周囲を圧倒する景観となる。
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・二の丸跡(にのまるあと)
二の丸は本丸の南に連なり、東西36M×南北20Mの広さで、本丸とは約2Mの比高差がある。本丸とは北西端にある石列で画した通路でつながる。部分的に礎石がみられ、その間隔は2Mを測る。南側・三の丸の境には高さ3.5~5Mの石垣の痕跡が残るが、石垣は西側の御蔵屋敷側にもあった可能性が高い。これら石垣は、破城により崩されたものとみられる。

本丸〜三の丸の周辺からは、毛利氏の所有とみられる高級な中国製青磁を含む貿易陶磁や土師質土器などが採集されており、16世紀後半には儀式や接客空間を持つ城の中心施設があったことがわかる。
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・三の丸跡(さんのまるあと)
東西40M×南北47Mの城内最大の郭で、石垣や石塁、切盛の造成により東段・南段・西段の3段に分割されている。

東段は20M×40Mの広さで、礎石がみられるほか多量の瓦が採集され瓦葺建物があったことがわかる。南段は22M×13Mの長方形に削平している。これらに囲まれた西段は、南段との間を石塁でへだて、東段とも高さ1.5Mの石垣で画している。西段では、北西隅から御蔵屋敷上段への通路と、西側中央からスロープで三の丸西側を巡る帯郭に下り御蔵屋敷下段への通路がのびている。

西段は御蔵屋敷下段郭と同様に三の丸から本丸・二の丸への出入口となる。
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・郡山城本丸跡
標高390M、比高約190Mの山頂がこの本丸跡である。一辺35Mの方形をなし北端は一段高く櫓台状にしている。西側の切岸に列石がみられることから、かつては石垣が築かれていた可能性がある。史料によると毛利元就とその化を継いだ孫の輝元はこの本丸跡に居住していたとみられる。

毛利氏の本拠城・郡山城は、15世紀中頃には郡山南東部の支尾根に城(本城)が築かれ、16世紀中頃に元就が郡山全域を城郭化した。山頂部の本丸周辺の郭群を中心に放射状に伸びる6本の尾根とその支尾根には大小300以上の郭が築かれている。
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・厩の壇跡(うまやのだんあと)
本丸の東南方の長さ約400Mにも達する長大な尾根の基部にあって、17Mと24Mの段から尾根に沿って7段と、それから北に分かれる4段の曲輪からなる。

最大の曲輪は、尾根の上中央の基部から3番目の曲輪で、約410㎡の広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。北側の4段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。

なお、基部の曲輪から釜屋の壇へは通路がのび、南側の段へも通路があり、幅3Mから5Mの付曲輪がある。この南側下の段が馬場とよばれているところから、厩の壇には厩舎があったところと考えられる。
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・釜屋の壇跡(かまやのだんあと)
この壇は、20M×24Mで、面積約300㎡の台形をなし、本丸から15M下位にあり、北は姫丸壇へ南は厩の壇へとそれぞれ通路が続いている。

この壇の郭群は、これからからそれぞれ2Mから4Mの比高差をもって五段続いているが、この段の面積は50㎡から150㎡と小さく、石垣等も見られない。
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・羽子の丸跡(はごのまるあと)
羽子の丸は、釜屋の壇の先端を、幅7M深さ3Mの堀切で隔て、その先端を利用したものである。
先端頂部の曲輪から南へは1Mから5Mの比高差をもって三段、東へは1Mから3Mの比高差をもって三段があり、それらを帯曲輪でつなぎ、さらに付曲輪を加えるなど、堅固なつくりを構えている。特に頂部の曲輪は面積650㎡もあり、これだけでも城として独立しうる機能をもっていたと考えられる。
羽子の丸は、本丸からすると艮(北東)の位置にあり、可愛川の東流部から、甲田町方面を望む枢要な位置にあり、要所と考えられる。
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・三の丸石垣
三の丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯郭(おびくるわ)との間に築かれた石垣。城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されたが、この部分では当初の石積みをわずかに留めている。帯郭から三の丸への通路は高さ約五Mの石垣を斜めに登る階段状となっており、虎口郭(こぐちくるわ)的な三の丸西の段への入口とみられる。
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・姫の丸壇跡(ひめのまるだんあと)
本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の壇へ、東は釜屋の壇へつながる。ここから北への三段もほとんど比高差をもたず連なり、さらに北へ三段あるが、主要には基部の三段が機能していたと思われる。基部の両側には一部に石垣も残っている。

この壇に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化十三年(一八一六)長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本にとり持ち帰ったと伝えている。
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・釣井の壇(つりいのだん)
釣井の壇は、本丸の西方にあり北に姫の丸、南は御蔵屋敷に通じる長さ75M、幅15Mの長大な郭である。西の尾根先には狭小な郭が僅かにあるが、元就墓所方面に対峙する唯一の郭と言える。郭面は良く整地されており、東南部にはその名のとおり石組井戸跡がある。現在水はなく直径は1.5M、埋まった状態での深さは約4Mで本丸に最も近い水源である。

この郭の南・北側斜面には石垣跡が見られ、特に南側の登山道に面した石垣は多くが崩されて裏込石が露出しているが規模は大きい。なお、東南端部には石材が帯状に残り、破城に伴う痕跡(石引き道)の可能性がある。
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・ひさびさキノコ
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・郡山第1号古墳
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・郡山第2號古墳
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・嘯岳禅師の墓(しょうがくぜんじのはか)
嘯岳禅師は筑前博多の人で二度も明に渡り修業を積み、永禄三年(一五六〇)帰国後は、丹波高源寺、京都建仁寺、そして南禅寺などを歴任した。

元就(もとなり)は使を出し、禅師を竹原妙法寺からしばしば吉田に招きいれた。元就の逝去に際して、禅師は葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山にもなった。

慶長四年(一五九九)一〇月五日没。この墓は天明八年(一七八八)山口洞春寺により建立した。
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・毛利一族墓所(もうりいちぞくぼしょ)
毛利一族墓所は、郡山城内や城下にあったそれぞれの墓を、明治二年(一八六九)にこの地・洞春寺跡に移葬されたものである。
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・洞春寺跡(とうしゅんじあと)
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元年(一五七三)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であった嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師を開山とした臨済宗の寺院である。
輝元の広島移城の際、広島城下に移った。
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・百万一心 礎石
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・毛利元就墓所(もうりもとなりぼしょ)
法号は日頼洞春大居士。
三回忌には毛利輝元により菩提寺・洞春寺が下段に建立され、嘯岳鼎虎禅師が住職となった。洞春寺は広島築城に伴いその城下に移転したが、元就墓所は残された。その後、長州藩や毛利氏により保護、整備されてきた。
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・三矢の訓
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