岡山・島根ドライブ 西谷墳墓群
西谷墳墓群(にしたにふんぼぐん)
西谷墳墓群は、今からおよそ1,800年前(弥生時代末期)の出雲の王たちが葬られた墓地です。
現在、6基の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)を含む、多くの墳丘墓が確認されています。
ここからは、吉備(岡山県)や北陸地方、山陰各地の土器が出土しており、当時の出雲の王たちが、日本海側から瀬戸内側に及ぶ広い範囲の王たちと交流していたことが分かっています。
この歴史的な遺産を保存し、活用するために「出雲弥生の森」として整備されました。
■西谷3号墓
西谷3号墓(四隅突出型墳丘墓)
およそ西暦200年頃に造られた弥生時代の山陰独特な形のお墓です。
3号墓は南北約 42m、東西約 52m、高さ約 4.5mを測る大型の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)です。
西谷墳墓群で最初に造られた王墓です。
墳丘の斜面には貼石(はりいし)、裾には2段の敷石(しきいし)と立石(たていし)が並び、墳丘全体を囲っています。
埋葬施設は8つ以上あり、およそ10人が埋葬されたようです。
発掘調査により、約 29kg の多量の水銀朱(すいぎんしゅ)、鉄剣、装身具、300点を超える土器が出土しました。
墓穴の大きさや副葬品から出土王は第1と第4埋葬に葬られたと推測されています。
・埋納された宝物
埋葬施設には、墓土の上層から200個以上の土器(アクセサリ)、また、第1主体部や第4主体部など複数の埋葬があることから、当時は、数多くの儀礼が行われたことが伺えます。
第1主体部は当時の王、第4主体部はそれに次ぐ高位な方が葬られていたのではないでしょうか。
・地域間交流
墓上に並ぶ特徴ある土器や大量の水銀朱が出土していることから、現在の大山北麓、伯耆、山陽地方(吉備)などと密接な交流があったことがうかがえます。
特に北陸地方との関係も深く、日本海沿岸の王たちのネットワークが広がっていたと考えられます。
・墓上の祭祀
墓面上では今もなお、祭りの跡が確認されています。
土器の配置やその形は、当時の埋葬儀礼の様子を今に伝えています。
それらをもとに当時の儀式の様子が復元されています。
・西谷3号墓の埋葬施設
西谷3号墓には大小8つ以上の墓穴があります。
なかでも、墳丘の上に表示している「第4主体」と「第1主体」と名付けられた墓穴は、長辺が約6mもある巨大なものでした。
これらの墓穴には、二重の木棺(もっかん)が納められており、その底には真っ赤な朱(しゅ)が敷きつめられていました。
たいへん手厚い埋葬であったことがわかります。
棺の中からは、第4主体で鉄剣と胸飾りが、第1主体で200個以上の玉類(アクセサリー)が発見されています。
前者には当時の男王が、後者には女王が葬られていたのではないでしょうか。
また、第4主体では4本柱の跡も発見されました。
これら発掘調査の成果から当時の葬儀の様子が明らかになってきました。
■西谷2号墓(四隅突出型墳丘墓)
2号墓は南北約 46m、東西約 29m、高さ約 3.5mを測る大型の四隅突出型墳丘墓です。
西谷3号墓の次に造られた王墓です。
墳丘の斜面には貼石(はりいし)、裾には2段の敷石(しきいし)と立石(たていし)が並び、墳丘全体を囲っていることがわかっています。
墳丘は4分の3が壊れていましたが、発掘調査によって、中心部などからガラス腕輪や100点近くの土器が出土しました。
また、2つの埋葬施設の存在が推定されています。
・よみがえった西谷2号墓
整備前の2号墓は、墳丘のほとんどが削り取られていました。
今回の整備では、わずかに残った墳丘を土で覆って保護し、発掘調査の成果に基づいて石も貼り付けました。
こうして、2号墓の壮大な姿がよみがえりました。
さらに、内部に展示室を設けました。
発掘調査で見つかった2つの埋葬施設の位置には、土層を再現したパネルや出雲王の埋葬状態の復元模型を、実際の大きさで展示しています。
・土層
2号墓の発掘調査では、わずかに残っていた墳丘から墓穴(ぼけつ)の痕跡が発見されました。
2号墓で最初に見つかった墓穴であることから「第1主体」と名付けられています。
第1主体は墳丘の南端にありますが、棺には当時としては大変貴重な朱(しゅ)が敷きつめられていたことが分かっています。
左の土層パネルの奥には、本物の土層が今でもそのままの状態で保存されています。
質の異なる土が幾重にも重なりあっている様子が見てとれます。
こうした土層を丹念に観察し研究することで、出雲王の埋葬施設がどのような構造だったのかが分かります。
木棺を大きな(箱)で覆った「二重構造」であったことが判明し、手厚い埋葬を行っていたことが明らかになりました。
・埋葬
ボタンを押すと浮かび上がってくる。
浮かび上がるまで時間がかかるのでよそ見してて振り返ったら現れててビックリした。
・西谷3号墓の調査
西谷3号墓は1983年から1992年にかけて、島根大学考古学研究室により、4期にわたる発掘調査が実施されました。
この調査によって、墓の構造の様子や墳丘部の特殊な土器等により、およそ200年頃に葬られていた、きわめて高い身分の王の存在が明らかになりました。
こうして、この地の四隅突出型墳丘墓が、出雲の王の墓であることが決定づけられました。
・西谷2号墓の復元
この四隅突出型墳丘墓は、発掘調査の成果に基づいて、わずかに残っていた墳丘を大切に保護しながら、当時の姿に復元したものです。
機械がなかった約1,800年前の弥生時代に、この巨大な土盛りを築き上げた人々の苦労は計り知れません。
墳丘の保護
2号墓は、後世に削り取られた箇所に盛り土を施し、現存する墳丘を保護するとともに当時の墳丘の形を復元しています。
削られた箇所は、実際の高さより数10cm低くなっています。
■西谷4号墓(四隅突出型墳丘墓)
4号墓は南北21m、東西32mを測り、突出部を含めると約40mの大形の墳丘墓です。
墳丘の斜面には貼石、裾部には敷石、その外側には立石を並べています。
平面形はきれいな四隅突出型にはなっておらず、ゆがみが見られることから、地形に合わせてつくられたと考えられます。
特に南東突出部は先端まで残っていました。
これはどの大きな四隅突出型墳丘墓の突出部が壊れずに残っていることは珍しく、突出部の意味について考える上での大きな成果となりました。
出土遺物は、地元の壺や器形品、吉備(岡山県)の特殊土器が出土しており、これらの土器から弥生時代後期後半(2世紀末)につくられたものと考えられます。
■西谷5号墓
4号墓の南東に隣接してつくられた墳丘墓です。
墳丘は過去に改変されていますが、長辺22m前後・短辺約17m、高さ2m前後の方形または楕円形であったと推定されます。
なお、築造時期については不明です。
また5号墓北西の平坦部には土壙(どこう)1基、南東には番外3号墓がつくり出されています。