市川猿之助 (4代目) 日本の俳優、歌舞伎役者 (1975-)

四代目 市川 猿之助(いちかわ えんのすけ、1975年〈昭和50年〉11月26日 [1] - )は、日本の俳優、歌舞伎役者。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三ツ猿。歌舞伎名跡「市川猿之助」の当代。東京都出身[1]。本名は喜熨斗 孝彦(きのし たかひこ)[1]。2012年6月、二代目市川亀治郎改め、四代目市川猿之助を襲名。ケイファクトリー所属。
来歴
1975年(昭和50年) - 歌舞伎役者四代目市川段四郎の長男として東京に誕生。二代目市川猿翁(三代目猿之助)は伯父、その長男の俳優の香川照之(九代目市川中車)は従兄にあたる。女優の高杉早苗は父方の祖母[2]。
1980年(昭和55年) - 7月、歌舞伎座『義経千本櫻』の安徳帝で初お目見得。
1983年(昭和58年) - 7月、歌舞伎座『御目見得太功記』の禿たよりで、二代目市川亀治郎を襲名して初舞台。
1985年(昭和60年) - 10月、歌舞伎座夜の部『雙生隅田川』で伯父三代目猿之助、七代目尾上菊五郎の3人で宙乗りを勤め、当時の最年少宙乗り記録を樹立。
1987年(昭和62年) - 9月、南座スペシャル「猿之助のすべて」Dプロ『連獅子』で狂言師左近後に仔獅子の精を勤める。親獅子の精は父・段四郎。
1989年(平成元年) - 7月、歌舞伎座昼の部『独楽』を弱冠13歳で勤める。
1998年(平成10年) - 3月、慶應義塾大学文学部国文学専攻を卒業。7月、歌舞伎座『義経千本櫻』のお里で名題昇進。
2002年(平成14年) - 8月、京都造形芸術大学春秋座「第一回亀治郎の会」を開催。
2003年(平成15年) - 7月公演を最後に、父・段四郎とともに猿之助一座を離脱。
2005年(平成17年) - 重要無形文化財(総合認定)に認定され、伝統歌舞伎保存会会員となる[3]。
2006年(平成18年) - 3月、三谷幸喜初演出の歌舞伎『決闘! 高田馬場』に出演。翌年、蜷川幸雄演出の歌舞伎『NINAGAWA十二夜』に出演。
2007年(平成19年) - 大河ドラマ『風林火山』では、武田信玄(晴信)役でテレビドラマ初出演。撮影時の様子を「(『風林火山』に出演するまで)テレビドラマに縁がないと思っていたけど、現場がよかった。千葉真一さんは僕に付きっきりで、映像のことを教えてくれた。従兄の香川照之は大河ドラマのスタッフさんを知ってるから、1日付いてくれて各部署に頭を下げてくれた」と振り返っている[4]。
2021年(令和3年) - 7月30日、新型コロナウイルスへの感染を公表[5]。8月3日初日の「八月花形歌舞伎」は、同月20日に舞台復帰するまで坂東巳之助が代役を務めた[5][6]。
2023年(令和5年) - 5月18日、マネージャーが猿之助の自宅を訪れた際に、猿之助、父の四代目市川段四郎、母の喜熨斗延子が共に倒れているところを発見した。延子はその場での死亡が確認され、段四郎は病院に搬送されたが、その後死亡が確認された[7]。本人の命に別状は無かった[8][9]。自宅からは猿之助が書いたとみられる遺書のようなものが見つかった[10]。報道によると「警視庁は猿之助が心中を図った可能性もあるとみて捜査をしている」という[10]。5月19日、父の市川段四郎と母について、司法解剖の結果、向精神薬中毒により死亡した疑いがあることが分かった[11]。猿之助は「死んで生まれ変わろうと家族で話し合い、両親が睡眠薬を飲んだ」という趣旨の説明をしているという[12]。5月24日、警視庁の任意の事情聴取に猿之助が「両親と心中を図った」という趣旨の説明をしたことが捜査関係者への取材で分かった[13]。

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