文才のなさ
もっと、文章を書く才能があればと思うことがある。読みやすくて面白いエッセイを量産できるからである。もちろん、才能があるからといってスラスラと書くことは出来ないだろう。文才のない僕みたいに四苦八苦することだってある。それでも、最終的に面白いエッセイを書くのは才能があるからである。
毎日、エッセイを書いているが納得の出来る内容とは程遠くなっている。それでも、めげずに書いていけば、文才のある人が書くエッセイに近づくことが出来ると信じているからだ。そうでなければ、文章の垂れ流し状態になってしまう。
僕が心がけているのは、中学3年生の子供が読んでも分かるように読みやすくて、それでいて、面白いエッセイを書くことを重点的に取り組んでいる。文章の読みやすさは出来ていると思うが、内容がつまらなくては意味がない。なので、今後の課題としては、如何にして面白いエッセイを書くことだと思う。
一口に面白いエッセイといっても、爆笑するような笑いや、思わず吹き出してしまう笑い、後からじわじわと出てくる笑い、シュールな笑いといった分野に分かれる。どれをチョイスしてもいいが、良質な笑いを求めて書いていきたい。
かつて、中島らもは「笑いは差別だ」と明言を残しているが、全くその通りだと思う。他人と比べて自分自身の矮小さや逆にいい点が見つかり、それをもとに書くのである。ナンシー関も、違った意味で面白いエッセイを書いている。
消しゴム版画で、芸能人の似顔絵を掘り、そこからテレビを通して垣間見えてくるナンセンスなことを、毒舌ながらも面白おかしく書いている。彼女の基本的なスタイルは、特定の芸能人を取り上げて、舌鋒鋭く毒舌で書いているから舌を巻く。
消しゴム版画も効力を発揮している。僕には、消しゴム版画は出来ないが、今のテレビに対して思わずツッコミたくなることがたくさんある。それらを書いていけばいいけれど、毒舌と悪口は紙一重なので、その塩梅が難しい。もし、今、中島らもやナンシー関が生きていれば、どんな内容のエッセイを書くのか興味がある。
この世にたらればがないように、死んでしまった人たちが書いたエッセイは幻である。それならば、生きている人たちのエッセイを読んだりして、書いていかないといけない。面白いエッセイばかりではなく役に立つようなおばあちゃんの知恵袋みたいなことも書いていければ幸いである。