安重根の言葉、入る文
安重根の言葉
入る文
「朝鮮の安重根ではなく世界の安重根」
「私が大韓独立を回復し、東洋平和を維持するため、3年間、海外を転々としながら苦労したが、その目的を果たせず、ここで死ぬより、私たち2千万の兄弟姉妹は、それぞれが奮発して学問に励み、産業を振興することで、私の意思を受け継いで自由独立を回復すれば、死ぬことはない」
死を超越した毅然さの中でも祖国と民族を心配し、愛する心を離さなかった人。 彼は1910年3月25日、『大韓同胞に告ぐ』というタイトルで『大韓毎日新報』に掲載された。
彼は大韓帝国期の国の運命が滅びた時、一人で異域万里満州ハルビン駅で侵略の元凶である伊藤博文を処断し、大韓男児の気概と韓国人の民族魂が生きていることを全世界に知らせた。 私たちなら誰でもこの内容だけでも彼を推し量ることができるだろう。 我が民族の英雄、安重根(アン·ジュングン)義士だ。
彼の快挙は、世界中を驚かせ、侵略者·日本の肝胆を冷やした。 中国の精神的な支柱である孫文が彼の義挙に「功勲は朝鮮を覆い、名は万国に広げるが、百歳の人生ではないが死んで千載に垂れる。 弱い国の罪人であり強い国の宰相だ。 それでも立場を変えてしまったら伊藤もまた罪人だ」という頌祝詩を作って称賛した。 また、中国の近代思想家、張台炎は「安重根は朝鮮の安重根、アジアの安重根ではなく、世界の安重根だ」と絶賛し、彼の義挙後、中国で「革命家になろうとすれば孫文のようになり、大丈夫なら安重根のようになれ」という言葉が広まった。
彼の義挙で韓国はもちろん、中国など周辺国の若い青年たちに勇気と希望のメッセージを伝え、日帝の侵略蛮行に多くの国が力を合わせて対応する契機を作った。 特に孫文氏は、彼の義挙を機に、その後の大韓民国臨時政府の樹立に後援を惜しまなかった。
「死を恐れない。 拷問も怖くない。 私の理性と心臓は君たちによって病まれた。 死にながら私は嬉しい。 私は祖国解放の最初の先駆者になる」。
この言葉は1909年10月26日、安重根(アン·ジュングン)義士が中国ハルビンで伊藤博文を狙撃して日本に逮捕され、最初の尋問で行った陳述で、同年11月、ロシアのある日刊新聞が報じた内容だ。
伊藤博文を随行した南満州哲(ナム·マンジュチョル)首席理事で、伊藤博文と共に狙撃された田中清次郎は、後日安重根の人物になることをこのように語った。
「これまで会った人々の中で最も立派な人物は、残念ながら安重根だ」
安重根(アン·ジュングン)義士は32年の短い生涯の間、不義に堂々と立ち向かい、祖国愛と人類の普遍的価値である平和実現のために躍動的な人生を送った。 敬虔な信仰者であり教育者であり、思想家であり義兵長として時代が要求した民族的課題の前に全身を投じた。 彼が獄中で残した『東洋平和論』と200点余りの遺筆は今も我々の襟を正させる。 また、獄中自叙伝『安応七歴史』は、安重根義士が1909年1026日(旧暦9月13日)上呉9時半、ハルビン駅で大韓帝国侵略の元凶である伊藤博文を狙撃した後、旅順監獄に収監されていた間、同年12月13日に執筆し始め、翌年1910年に殉国する10日前の3月15日に脱稿したもので、93日間だ。 この中には彼の人生はもちろん、彼が出会った現実、その中で彼が成し遂げようとした夢がそのまま込められている。
『安重根の言葉』は、安重根義士が殉国を控え、長くなかった人生を淡々と率直に記録した獄中自叙伝『安応七歴史』や『東洋平和論』をはじめ、安重根義士が残した文章を掲載した。 彼の文章から当時の風前の灯火のような時代状況はもちろん、その中で我が民族が経験した苦難と苦悩、そして彼の並々ならぬ民族愛と平和精神を読み取ることができる。 これは時代が過ぎた今も大きな感動につながる。
さらに、この本に載せられた、死刑執行前に彼が2人の弟に残した最後の遺言は、大韓独立に向けた彼の精神と国を愛する気持ちがそのまま盛り込まれている。 時代は異なるが、彼が力を入れて進もうとした道、そして不義に立ち向かった人生は今もなお輝きを放つ。
「私が死んだ後、私の骨をハルビン公園のそばに埋めておき、国権が回復したら故国に移してくれ。 私は天国に行っても当然わが国の独立のために尽くすつもりだ。 君たちは帰って、同胞たちにそれぞれの国の独立のために責任を持ち、国民の義務を果たし、心を一つにし、力を合わせて功を奏するように言ってくれ。 大韓独立の声が天国に聞こえてくれば、私は当然踊りながら万歳を叫ぶ」。
この本で国が危難に直面した時、我々の先烈たちがどのように戦って国を守ったのかを振り返り、それによって国家と民族という共同体の大切な意味を改めて再確認することができることを期待する。